
さてさて、EOS の 40D が発表になったら、ニコンは D300 に加えてお待ちかね 35mmフルサイズのCMOS を搭載したフラッグシップ機 D3 を発表した。
仕事も終わり、アンチウィルスも賞味期限を過ぎるという警告が出たので、書き換えの情報を得に、ヨドバシアキバに参じる。ついででカメラのパンフはないかな……とうろつく……ナイ。かろうじて EOS 40D のパンフだけは店頭品としてカメラの台座に 1 部だけ鎮座していました。
変わりに持ち帰ってきたパンフは 『 ピクチャースタイル ガイドカタログ 』 こんなものがあったんですね。しかもよく見ると 2 種類ある。? と思い裏を見ると、2 月版と 8 月版。あぶなく古い版を掴まされる所でした。
EOS の発表で気になったのが、表題にもある「 ピクチャースタイルエディター 」。
無料配布はされるのかなと思い HP を探しに行ったけれど、撮像素子の大きさやら他のデータを見ているうちに忘れてしまっていました。
ニコンのデジカメもトーンカブのカスタマイズなどできるらしいですが、いいですね、ピクチャースタイルのカスタマイズ。
このカタログによるとホームページ上で「10月からダウンロード可」になっています。今ホームページを見ると、こちらは 11 月になっていますけれど、ホームページが最新の情報なのでしょう。
ちょっとしたお楽しみができました。
写真は本文とは関係ありません。いれる予定はなかったけれど、寂しいのでオマケ程度に。
【追記】 2007. 10. 31 “Picture Style Editor 1.1”のダウンロードが可能になりました。“for Windows”のダウンロードはこちらから
![]() | バッハ:ゴルトベルク変奏曲 (2005/06/22) レオンハルト(グスタフ) 商品詳細を見る ☆☆☆☆★ |
夏も終わりに近づいてきた。
少しゆっくりした時間を過ごそうと、久しく遠ざかっていた音楽鑑賞の世界に立ち戻り、CD を手に帰宅する。
以前から聴きたいと思っていた グスタフ・レオンハルト( Gustav Leonhardt 1928.5.30- )の『J.S.バッハ/ゴルトベルク変奏曲』である。(その他にも何やかや……ここはゴルトベルクで代表)
レオンハルトという奏者、私はあまり好きではない。
氏はアーノンクールらとともに、今日の古楽の地位を慥らめた功労者にして、不朽の功績を成し遂げた権威の1人であることは誰しも認める所であろう。
古楽黎明期、これら少数派の指示する古楽は、現代楽器の奏法を否定し、バッロクボウ、ガット弦から始まり、ノンヴィブラート奏法、残響音たっぷりの宮廷を利用して、安定しない音を飽和させるスタイルの演奏を蔓延させていた。
また他の楽器、例えばチェンバロは言うに及ばずオルガン奏者に対して、今日のピアノと同じように指を曲げて打鍵しているだけで失格の烙印を押すというような極端に排他的な態度をとり、はてはバッハのシャコンヌ冒頭はこの奏法では和音とは考えられないから、当時のアルペジオの表記法がそれだったのだ、及びこれとは逆に中間部のアルペジオ部分が和音なのだ……のような陳腐な説さえも押し付けていた。このようなイデオロギーを擁した古楽界の人々の態度も白けたし、その結果オーセンティックとされて出される演奏/録音の音楽的魅力の乏しさに、可能性を魅つつ、音楽業界の多様化というのか、リリースされる録音の氾濫と輸入・国内版の区別無しのマーケティング……音楽鑑賞という日課から徐々に足は遠のいていった。
そして台頭しつつあったレオンハルトの演奏。曲の流れを断ち切る小節ごとのアクセントの強調、J.J.クヴァンツの『フルート奏法試論』によるといわれる不均等な拍子を刻むスケール、恐ろしく不自然にアゴーギックに揺れるテンポ、場合によっては完全に転ぶ……かなり癖のある演奏だった。それも意図的なテクニックなのかどうかも分からない。このようなフルート理論を鍵盤楽器にまで敷衍していいのかどうか、専門家でも当否が別れているという。
こうした奏法でも、この人の門下に連なるアンタイ Hantai など第二世代、もしくは第三世代でもう少し洗練された演奏を聴かせる人は少ないけれど存在する。
そんな理由でほとんどの録音は聴かず嫌いだった。
昨今の古楽演奏は、当時とはまた異なる。
ヴィブラートは全く否定されている訳ではないし、誇張したピリオド奏法は退行して、現代的感覚をともなった演奏に近づいた。ヘレベッヘの合唱曲を聴いているとあまりのロマンティックさに、リヒターを意識しているかと耳を疑ってしまう。
そして一時期店頭に並んでいなかったレオンハルトの録音も、来日記念で廉価版がリリースされ、輸入盤の品数も結構な数に及んでいる。
そんな時代の移り変わり中で、更めてピリオド楽器を用いたバッハを聴きたいと意欲も湧く。
第1候補はパルティータだったはずが、次点のゴルトベルク変奏曲に手を伸ばす。
ゴルトベルクの録音は、1.1953年 VANGUARD 2.1965年 Teldec 3.1976年 DHM Splendeurs(duetshe harmonia mundi. オリジナルはBMG) と数種類がある。今回入手したのは1976年版。古い録音は恐らく私の想像の範囲の中にあるであろうことも、この曲のこの版にした理由。
演奏は中庸。
例えばグレン・グールドの解説では、主題のアリアから唐突的に第1変奏に移る点を指摘している。一般的に変奏曲というのは、第1変奏は控えめに主題に従属しながら第2変奏につなげていく役目を担うが、作曲者はここではアグレッシブな挑戦を試みている、という理解になる。グールドのみならず他の演奏家たちも、彼らの演奏からこの変奏に同じような性格を読みとっていたことは理解できる。
ところがレオンハルトは、主題と全く同じ流れのもとでこの変奏を始める。実に淡々としたものである。この傾向は全変奏を通じて流れているが、後半にかけてやや昂揚してくる。
この奏者はコンサートでもそのような傾向だという。プログラム最初は控えめな調子で、後半にかけてのってくる。録音でもその傾向が反映しているのだと思う。それは他の CD では次のような感じで現れている。J.S.バッハのオルガンアルバムであるが、かの有名なトッカータとフーガ d-moll BWV565 この緊張をもたらすパッセージで始まる楽曲を、揚々とした雰囲気で弾きこなしてゆく。BWV548 にしても然り。教会音楽・バロック音楽という特権階級社会の穏和な空気を破る、天からもたらされた一閃の光線ともいうべきセンセーショナルな音のシンクロを、なんの衒いもなく古楽趣味に引き戻し、レシピ通りに料理してしまう。―― 一方、典礼に用いられるはずのコラールで紅潮した表現、というのが失礼なら活き活きとしてくるのである。録音時の状況によるもので、奏者の意図にかかるものではないだろう。
ゴルトベルク変奏曲に話は戻り、とにかく奇は衒わず破綻のない、他の曲の演奏に共通してみられる貴族趣味的なゆったりとした演奏である。(一部評で「繊細な」というが、丁寧にさらってはいるが繊細というイメージからは遠い。また彼自身が貴族の出身ではない。両親はビジネスマンだったというが、家にチェンバロが置いてあったということから、彼のステータスはある程度想像しうる) それはこの曲が持つ堅牢な構成―― 一定のバス旋律・単一の和声進行のリアリゼーション、全体のシンメトリー構造、またグールド風にいえば初期のころのような転調を試みない、一定の調性にもとづく禁欲主義的な曲――に支えられている感はいなめない。凡庸とも非凡ともとれる不思議な演奏である。楽器の復元から、奏法の追求、非平均律の調律や合唱・合奏が加わるときの問題などあらゆる思索を試みてきた、これらの成果からの1つの回答とみたとき、彼の演奏は凡非凡論をこえて、斯界が到達した金字塔であることには違いない。(勿論それらの試論は、いまだ充分な確定的な解答は得られていない。レオンハルト自身も恐らくそういうスタンスであろう。)
それにしても専門家にしか手が届かない種々の復元楽器、それも産地や製作者により、また同じ系統の楽器であっても1つとして同じ発音・規格にあてはまらない楽器をその都度取り出して、試演試論を繰り返し評価を加えるニッチな分野。閉ざされた世界のフリークたちのサロン(遊技場)を形成しているといってもよい。提示される演奏はこれらの背景的知識がなければ、どれも聞き手に充分伝わる名演奏とは言い難い。バロックハウスの中で現代の食材をガリア式・ゲルマニア式の調理で食べているような感触で、消化不良のまま、いつも私たちに満たされぬ思いが残るのである。
楽器の問題も含めこの時代の音楽を奏でた環境が現代社会に甦えれば、リスナーも奏者とともにその曲の良さを味わえようが、地理的な条件を含め、すでにその後の時代/数世紀の歴史がその上に積み重なっている。もはや望むべくもないことである。この中でどのようにリスナーが「ピリオド」の限定の中に入ってゆくのか、あるいはある種の壁が立ち続けるのか。
最初も今も問題はただ1つなのである、
なぜピアノでバッハを弾いてはいけないのだろう。この理不尽な状況。
なぜウィーンフィルがバッハを演奏できなくなってしまったのだろう
古楽というのは不可解な世界を築き上げてしまったものだとつくづく思う。

CANON AE-1P NewFD 50mm F1.2
ILFORD XP2 SUPER
しばらくAE-1Pを使用しなかった。
巷間では、キヤノンのカメラの耐久性を疑う声が多い。それでなくてもたまには使用しなくては……
電池をいれてシャッターを切る。何ごともなく動く、鳴きもない。いざ出発。
ところが被写体に接して動きがおかしい。晴天下屋外なのに、露出不足で警告点灯したり、数秒かかってシャッターが切れたり。電池が切れているのかな、と途中で買い換える。
最初は快調に切れていると思ったが、元の木阿弥。緩慢なる動きである。
AEがいかれたのか、「また修理費がかさむ……」、魔毛狂介の台詞が脳裏をよぎる。
フィルムの現像ができあがってみれば、コマの切れ方がおかしいし、部分的に感光している。どうやらフィルム給送部も故障し、光も漏れているらしい。モルトも交換した方がよさそうだが、それ以前に何度も落として修理に出しているから、そろそろ引退を考えるべきか。
メンテをして殿堂入り、仏土に荘厳……行く夏は、何につけても切ないものである。
フランツ・カフカ(1883 | 1924)はチェコ人の裕福な家庭に生まれた。
ドイツ文学史ではユダヤ系ドイツ人とされているが、父親はチェコ人、母親は裕福なドイツ系ユダヤ人で、チェコ人に該当するという。(もっとも本人自身、ユダヤ人であるとの発言があり、その自覚にたった行動もしている)
父ヘルマンは富裕な商人だったので、カフカは当時の習慣に従い、比較的上層階級の児童が通う学校、「帝立兼王立ギムナジウム」(旧市街広場に所在した。現在キンスキー宮殿。 1 階部分がカフカ書店になっている)にいれられた。ここでの授業はドイツ語によるものだった。ここで早くからドイツ語を使用して文学作品を書いていた。
カフカの家
カフカの家族もそうだが、カフカ自身も頻繁に住居をかえた。
ここプラハ城の中、「黄金の小路」(「錬金術師小路」)にはカフカが執筆のために借りていた家が残されている。中央の青い家がそれである。
カフカは 1915 年に「金のカワカマス館」に転居しているが、落ちついて創作活動に専念できる環境ではなく、新しい家を探していた。そして 1916 年、プラハ城内の「黄金の小路」にたまたま貸物件を得ることが出来たという。手紙の内容からは、ほとんど期待しないであたった場所のようである。
わずか半年ばかりの縁だったが「カフカの家」は、小さなたたずまいだったこともあわせてお気に入りだったようである。『村医者』 『天井桟敷にて』 『猟師グラックス』 『あるアカデミーへの報告』 『家長の心配』などが執筆されている。黄金小路
カフカが昇降に使っていたお気に入りの道とは、ここのことであろうか。
カフカの生家
旧市街広場、聖ミクラーシュ教会の隣に生家はあった。
現在は一部を残して別の建物になってしまっているが、「カフカ記念館」が置かれている。外壁にはカフカのレリーフが掲げられている。
有名な『変身』が執筆されたのは、パリ通り(旧称:二クラス通り)沿いにあったという「ツム・シッフ館」である。当時は新築されたばかりの高級住宅であり、カフカの社会的地位を表している。1912 年頃のことである。現存せず、館のあった場所はインターコンチネンタル・ホテルになっている。ここを少し進むと(写真右後方へ進む)、すぐにカレル大学法学部がありチェコ橋である。
肺結核で逝去。オルシャヌイ墓地(プラハ本駅の東)に埋葬されている。
【参考文献】
ドイツ文学史ではユダヤ系ドイツ人とされているが、父親はチェコ人、母親は裕福なドイツ系ユダヤ人で、チェコ人に該当するという。(もっとも本人自身、ユダヤ人であるとの発言があり、その自覚にたった行動もしている)
父ヘルマンは富裕な商人だったので、カフカは当時の習慣に従い、比較的上層階級の児童が通う学校、「帝立兼王立ギムナジウム」(旧市街広場に所在した。現在キンスキー宮殿。 1 階部分がカフカ書店になっている)にいれられた。ここでの授業はドイツ語によるものだった。ここで早くからドイツ語を使用して文学作品を書いていた。
カフカの家
カフカの家族もそうだが、カフカ自身も頻繁に住居をかえた。
ここプラハ城の中、「黄金の小路」(「錬金術師小路」)にはカフカが執筆のために借りていた家が残されている。中央の青い家がそれである。

Sony DSC-R1
processed RAW materials by Photoshop CS2
いつだったか夏に僕はオットラ(カフカの妹)と家を探しに行きました。本当の静けさが見つかるかもしれないとはもう思っていませんでしたが、行くだけ行ってみたのです……。やはりだめでした、めぼしいものは一つもありません。冗談であの狭い路地でも訊いてみました。ありますよ、十一月以降なら一軒お貸しできます。オットラの方でも静かな家を求めていて、この家を借りるという考えに有頂天になったものです……。
そこには住み始めにつきものの欠陥がたくさんありましたが……今ではあらゆる点で僕にぴったりの家です――ここまで上がってくる道のすばらしさ、部屋の静けさ、隣人とは薄い壁一枚で隔てられているだけですが、その隣人が申し分なく静かなのです。僕は夕食持参でここまで上がってきて、たいてい夜中までいます。それからわが家に戻る道にもすばらしいことがあります、夜中に僕は切り上げる決心をしなくてはならないのですが、そのあとに頭を冷やしてくれる道が僕を待っているのです。さらにそこでの生活――自分の家を借りて持つということ、世間を後にして後ろ手で閉めるドアが、自室のドアでもアパートの玄関ドアでもなく、まさしく自分の家のドアであるということ、そしてそのドアを開けると目の前に雪の降り積もった静かな街路があるということ、そういったことのなかには何か特別なものがあります。そうしたすべてが月わずか二十クローネなのですから。必要なことはみな妹にやってもらって、また幼い花売り娘(オットラの生徒)にも最低限必要な分だけ世話をしてもらい、すべてが文句のつけようもなくすばらしいのです。フェリーツェ宛書簡 1916 年頃 『カフカのプラハ』より
カフカは 1915 年に「金のカワカマス館」に転居しているが、落ちついて創作活動に専念できる環境ではなく、新しい家を探していた。そして 1916 年、プラハ城内の「黄金の小路」にたまたま貸物件を得ることが出来たという。手紙の内容からは、ほとんど期待しないであたった場所のようである。
わずか半年ばかりの縁だったが「カフカの家」は、小さなたたずまいだったこともあわせてお気に入りだったようである。『村医者』 『天井桟敷にて』 『猟師グラックス』 『あるアカデミーへの報告』 『家長の心配』などが執筆されている。黄金小路
カフカが昇降に使っていたお気に入りの道とは、ここのことであろうか。
カフカの生家
旧市街広場、聖ミクラーシュ教会の隣に生家はあった。
現在は一部を残して別の建物になってしまっているが、「カフカ記念館」が置かれている。外壁にはカフカのレリーフが掲げられている。

この看板左手に、インターコンチネンタル・ホテルがある
写真正面の向こうに拡がる一画がユダヤ人街
有名な『変身』が執筆されたのは、パリ通り(旧称:二クラス通り)沿いにあったという「ツム・シッフ館」である。当時は新築されたばかりの高級住宅であり、カフカの社会的地位を表している。1912 年頃のことである。現存せず、館のあった場所はインターコンチネンタル・ホテルになっている。ここを少し進むと(写真右後方へ進む)、すぐにカレル大学法学部がありチェコ橋である。
肺結核で逝去。オルシャヌイ墓地(プラハ本駅の東)に埋葬されている。
【参考文献】
![]() | カフカのプラハ クラウス ヴァーゲンバッハ (2003/05) 水声社 カフカをテーマにプラハを旅する人には、よい案内書になると思います。 ただあくまでも旅行のガイド書ではないので、この本以外で、それなりの下調べは必要になります。 この商品の詳細を見る |
フュッセン。Füssen ロマンティック街道 南端の街
タイトルに勝敗が書かれている訳は、以前にシュヴァンガウを訪れた帰りに「寄り道して見て行かない?」と誘われ向かったが、アウトバーンが帰宅ラッシュで渋滞。
待てど暮らせど進まぬ状況に、「みんな夕食を作って待ってくれているし、やっぱり帰ろう」と、撤退を敢行したのが 1 敗。
今回せっかくノイシュヴァンシュタイン城に行くなら、リベンジで宿はフュッセンにとろう。ただそれだけで、観光もなにも無し。それが 0.1 勝。
レヒ川 Lech
アルプスの雪溶け水が流れをつくる。
ヨーロッパは、アルプスの山々を水源にする川・湖が、石灰分を含み独特の碧色を織りなす。
あと 100 年――地球温暖化で、水たまりに等しいヨーロッパ内陸部の湖のいくつかは干上がってしまう――そう予測されている。
ドイツアルプスを背に、たゆたう流れを見せる。
朝日をあびて蒸気をあげている写真は、左のリンクから見て下さい
ホテル
それほど大きな観光地ではない。ホテルは B ランクが軒を連ねる。
とりあえずトレフ・ホテル・ルイトポルトパーク Treff Hotel Luitpoldpark を押さえることに。よくガイドブックに載っているところだ。
インターネットで評判を見る。「今ひとつだな」……これが当初の感想。
でも、選択肢がない以上、ここで無駄に詮索してもしょうがない。
実際行ってみると、奥に建て増ししていて結構大きく、近代的である。レストランありショップもあり、ジムやらビューティーサロンやら、ちょっとした一流ホテル並みに入っている。
日本からの情報だけでは、マイナスイメージだったが、貧乏旅行の私たちには充分すぎるほど。スーペリアクラスとはいかないが、ランクはかなり上と見ていい。
写真は、WEB 上で見られるピンク色の建物を正面にして、向かって右に入った所にある、建て増し部分に付属している入り口。
聖マンク修道院 Kroster St.Mang
朝、城に散歩に出かける。
ゴミ収集車がゴミを取り込む。なぜかこうした日常の営みに出逢うのがたまらなく嬉しい。
多くのコウモリが群がっていたと思い写真に撮る。今よく見ると、どうやら鳥のようである。
菜の花や 陽は東に 月は西に
ホーエス城には行かず、遠景だけでも写真を撮っておいたつもりが、どうやらこれも修道院みたいである。城の写真はないことに……。
以前、補色残像の実験に使った写真。これがオリジナルである。
街角
聖シュピタール教会
マグヌスの影
ライヒェン通り(Reichen str.)の噴水には宣教師マグヌス像が街の伝説として祀られている。聖マンク修道院を創設した人物らしい。
1562 年にヨーロッパ初のリュート製造、ツンフト社が設立され、リュートやヴァイオリンの生産地としても知られている。(ほかにもミッテンバルトなど、南ドイツにはヴァイオリンの産地が結構ある)
ちなみにロマンティック街道の名称は、北ドイツからローマへ向かう巡礼の道であったこと、もしくはローマ人が造った街道だったことが由来らしい。すなわち Wikipedia に次のようにある。
タイトルに勝敗が書かれている訳は、以前にシュヴァンガウを訪れた帰りに「寄り道して見て行かない?」と誘われ向かったが、アウトバーンが帰宅ラッシュで渋滞。
待てど暮らせど進まぬ状況に、「みんな夕食を作って待ってくれているし、やっぱり帰ろう」と、撤退を敢行したのが 1 敗。
今回せっかくノイシュヴァンシュタイン城に行くなら、リベンジで宿はフュッセンにとろう。ただそれだけで、観光もなにも無し。それが 0.1 勝。
レヒ川 Lech
アルプスの雪溶け水が流れをつくる。
ヨーロッパは、アルプスの山々を水源にする川・湖が、石灰分を含み独特の碧色を織りなす。
あと 100 年――地球温暖化で、水たまりに等しいヨーロッパ内陸部の湖のいくつかは干上がってしまう――そう予測されている。
ドイツアルプスを背に、たゆたう流れを見せる。
朝日をあびて蒸気をあげている写真は、左のリンクから見て下さい
ホテル
それほど大きな観光地ではない。ホテルは B ランクが軒を連ねる。
とりあえずトレフ・ホテル・ルイトポルトパーク Treff Hotel Luitpoldpark を押さえることに。よくガイドブックに載っているところだ。
インターネットで評判を見る。「今ひとつだな」……これが当初の感想。
でも、選択肢がない以上、ここで無駄に詮索してもしょうがない。
実際行ってみると、奥に建て増ししていて結構大きく、近代的である。レストランありショップもあり、ジムやらビューティーサロンやら、ちょっとした一流ホテル並みに入っている。
日本からの情報だけでは、マイナスイメージだったが、貧乏旅行の私たちには充分すぎるほど。スーペリアクラスとはいかないが、ランクはかなり上と見ていい。
写真は、WEB 上で見られるピンク色の建物を正面にして、向かって右に入った所にある、建て増し部分に付属している入り口。
聖マンク修道院 Kroster St.Mang
朝、城に散歩に出かける。
ゴミ収集車がゴミを取り込む。なぜかこうした日常の営みに出逢うのがたまらなく嬉しい。
多くのコウモリが群がっていたと思い写真に撮る。今よく見ると、どうやら鳥のようである。
菜の花や 陽は東に 月は西に
ホーエス城には行かず、遠景だけでも写真を撮っておいたつもりが、どうやらこれも修道院みたいである。城の写真はないことに……。
以前、補色残像の実験に使った写真。これがオリジナルである。
街角
聖シュピタール教会
マグヌスの影
ライヒェン通り(Reichen str.)の噴水には宣教師マグヌス像が街の伝説として祀られている。聖マンク修道院を創設した人物らしい。
1562 年にヨーロッパ初のリュート製造、ツンフト社が設立され、リュートやヴァイオリンの生産地としても知られている。(ほかにもミッテンバルトなど、南ドイツにはヴァイオリンの産地が結構ある)
ちなみにロマンティック街道の名称は、北ドイツからローマへ向かう巡礼の道であったこと、もしくはローマ人が造った街道だったことが由来らしい。すなわち Wikipedia に次のようにある。
(ディンケルスビュール)市ができあがるまえから、2 つの交易路(ニーベルンク街道とローマ街道)が交わるヴェルニッツ川の渡渉地点として、防衛上の重要地であったこの地に、1130 年頃シュタウフェン家はディンケルスビュールの防衛施設を建造した。
この、ディンケルスビュールを通る(1236 年の文献では " Dinkelpole " と記載されている)南北の街道は、ヴェルニッツ川やレヒ川の渓谷沿いをたどる交易路であると同時に、北ドイツからローマへ向かう巡礼の道でもあった。
1950 年にアウグスブルクの市長であったヴェーゲレは、観光の振興を目的として、連邦道 B25 号線沿いを中心に、ヴュルツブルクからアウグスブルクまでの中間に位置する中世の面影を残した街が連なるルート、特にローテンブルク・オプ・デア・タウバー、ディンケルスビュール、リース盆地のネルトリンゲン、ドナウヴェルトを「ロマンティック街道」と名付けた。
Sony DSC-R1
processed RAW materials by Photoshop CS2
Sept. 2006
processed RAW materials by Photoshop CS2
Sept. 2006
新宿に行ったらドコモのタワーを撮ろう……
と思ってすでにいく歳月が流れたか。
今回新宿集合の用事があったので、ちょっと待ち合わせの前に……とカメラを持って走ったが、なかなかいい撮影ポイントが見つからない。綺麗に見えたのは恵比寿か明治神宮から眺めた光景だったか。これまた記憶にない。
新宿もサザンテラス口など新しい改札が出来、利用するのに便利になったものだ。
この向こうのお店に、ものすごい行列。何であろうと思ったら、どうやらドーナッツを売っているらしい。とおりがかりの OL さんなどが、「並ぶほどのものではない」と口々に言っていたのが聞こえた。
先日テレビ番組で取り上げられていたので、流行のお店らしい。
家族の前でちょっと物知り顔をした。
隣の紀伊国屋と、裏の H.I.S. はよく行く。
新宿夜景。





























