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ノイシュヴァンシュタイン城 02 : Schloss Neuschwanstein

「ノイシュヴァンシュタイン城 01」はここをクリック


Sony DSC-R1
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1866 年 マリア皇太后により架けられたマリエン橋から望む




王よ、この世紀の唯一の真なる王よ、敬意
自らの思うところのゆえに死を選んだ王よ
政治のことざま、虚妄の幻に復讐し
家にしのび入る奸智に復讐する
ヴェルレーヌの詩 三保 元さんの訳

ノイシュヴァンシュタイン城シュヴァンガウの街にある。ロマンチック街道よりやや東にはずれたところだ。さらに少し東に進むと、ルートヴィヒII世が唯一完成させた城、リンダーホーフ城がある。

ノイシュヴァンシュタインはバイエルン王国 Königreich Bayern のルートヴィヒ II 世 Ludwig II が手をかけた最初の城であり、未完の城である。つづいて着工したリンダーホーフ城 Schloss Linderhof は唯一完成した城になったが、ヘレンキームゼー城 Schloss Herrenchiemsee も未完……この状態で王は第 4 の城(ファルケンシュタイン)に着手しようとしていた。

彼は18歳で即位した時点では、優秀な頭脳と美貌を兼ね備えたと才気あふれる若者だったらしい。
プロイセン王国の鉄血宰相ビスマルク Otto Eduard Leopold von Bismarck-Schönhausen はこの明晰な若き王を生涯敬愛し、「ルートヴィヒ王とお会いしたのはこの時(1863.8)一回限りであった、しかし……比較的頻繁に手紙のやりとりを交わしたものである。……私は王がドイツ国家的見解を持った有能な君主であるという印象を常に受けていた」と後に述懐している。(『思想と想い出』)


以下の写真はリサイズのみのものと、HDR を使用したものとが混在しています
(上記写真は人物が特定できるためレタッチしました)


ノイシュヴァンシュタイン城にはいると、1つ1つの扉が高く、私たちの胸か肩くらいの高さに取っ手が着いているのに気づく。そして少し上を見上げると、若き頃のルートヴィヒ II 世王の胸像がまつられている。

狂気に満ちた王の人生からすると私たちを睥睨しているともいえるが、精気あふれる頃をモチーフにした像にそのような雰囲気は感じられない。出迎えてくれているような、そんな錯覚さえ覚えるのである。

私たちの視線を越えて、胸像は不自然に上にある。
それが押さえどころの1つで、この像が、実際の王の背の高さを示してくれているのである。そしてこの身長 190 ㎝ をこえる体躯の持ち主が、おろした腕で自然と手をかけた位置に、取っ手がつけられているというわけだ。

彼が体ひとつをとってみても、いかに常人離れしていたか、まざまざと見せつけてくれる。
そしてこういう小さな情報でも耳にはいると、不思議に王の存在が肌身に感じられてくる。


窓から東、完成していれば天守閣が設けられたであろう場所を眺める


巷間のメディアでは、狂王と呼ばれたルートヴィヒの奇行ばかりを白眼視し強調するケースが多い。しかしながらルートヴィヒワーグナー Richard Wagner に傾倒し、騎士物語に出てくるようなおとぎの城をかまえたのにも訳がある。

ドイツは、主権国家として一国となったのはヨーロッパの中でもっとも遅い部類である。ルートヴィヒが即位した時点ではバイエルン王国という地方領主に毛の生えたような存在であり、北にはプロイセン王国ザクセン王国、南西にヴュルテンベルク王国など、今日見るようなドイツという国はなく領邦国家の集団にすぎなかった。

ドイツとは何か? これが当時のドイツ人たちの至上命題であり、自国民のアイデンティティが形成できずに産みの苦しみを味わっていた時代でもある。

すなわち時代はネオ・バロックという芸術を試作してみたり、その流れの中でワーグナーの楽劇が誕生するのも、自国神話の創出を試みた結果である。この時代の潮流に自ら先導して国民を率いようとしたのが他ならぬ、王自身だったのである。

ルートヴィヒは、こうして形作られてきたイデオロギー、特にワーグナーが総合芸術として提示し、歴史というよりは単なる伝説に血肉を与え、具象化したナショナリズムを、新たなる建国理念として自分なりに咀嚼した。そのイデオロギーの実現、彼なりのドイツ建国の道程としてこの城々の存在を捉えることができる――問題は執政を放棄し、現実を無視して独りよがりで行っていた点にある――もっともそれらはルイ王朝の宮殿の模倣に傾斜していき、王自身のイメージがどういうものであったのかさえ正確なところは分からない。(「ルイ」のドイツ語が「ルートヴィヒ」だったこともあり、必要以上に親近感を持ったそうだ。両者に姻戚関係はない)

負担を強いたという城づくりの資金も国庫とは別の王室会計から支払われており、歴代の王が私的に使用した額よりは少なかったともいわれる。それ自体は退位の直接の原因とすることはできず、また異常ということもにもできない背景がある。


冬の写真。樹々は葉を落とし、華麗なる城の外観を余すことなく伝えてくれる
冬の写真は既出のもので、過去のページのアドレスを再表示。カメラはAE-1P


さて、この城を訪れて驚くのは、われわれが降り立つ街道=谷をはさんで、もう一つ王室色の黄色い立派な城がそびえ、この白亜の城と向かい合っていることである。黄色い城はホーエンシュヴァンガウ城、王家ヴィッテルスバッハ家の現在の居城である。(と私は説明された)
両者の距離は 1 km も離れているという。周囲に建物がないとこんなにも近く感じるものなのか……

もともとこの地はイタリアにいたる重要な交易路で、ローマのクラウディア街道がはしっている。街道沿いにはかつて 4 つの城があり、現在ホーエンシュヴァンガウ城がある場所にはシュヴァンシュタイン、南西にフラウエンシュタインの城があり、また対面の巌・テーゲル山の前山にフォーダーホーエンシュヴァンガウヒンターホーエンシュヴァンガウ(「前」と「後」の意)という城が建てられていた。

中世ヴェルフェン家・シュタウフェン家に使えた騎士たちが築き上げたこの城の最盛期は12世紀だといわれる。中世騎士たちの恋愛歌(ミンネザンク)の中心地であった。そして16世紀に騎士たちの時代は終わり、荒廃していった。



ルートヴィヒの父王マクシミリアン I I 世 Maximilian II はこの廃墟を買い上げ、1832-1838年にその昔シュヴァンシュタイン城があった場所にホーエンシュヴァンガウを再建した。
その理由は、1 つにはこここがあまりにも地理的にも景観的にもすばらしい土地であったこと、そして子供たちの養育という目的にもかなっていた。という訳で、ルートヴィヒと弟のオットーは、この城で幼年時代を過ごした。

ルートヴィヒは同じように、旧ホーエンシュヴァンガウ Schloss Hohenschwangau があった場所に、ノイ(新しい)ホーエンシュヴァンガウ城を築城する。1869年定礎である。設計は、王宮建築主任のエドゥアルト・リーデル。それをもとに宮廷劇場の舞台装置・舞台美術を担当していた画家、クリスティアーン・ヤンクが、完成画を書き直した。 1886 年になりノイシュヴァンシュタインとの名称に変更。

私が現地で聞いた説明によると、ここを建設地に簡んだ理由として、父なるホーエンシュヴァンガウ城に「どうです、ボクのお城のほうが立派でしょう!」というためだったと聞いたが、本当かどうか定かではない。ワーグナーに宛てた書簡には
私は、ホーエンシュヴァンガウの古い城の廃墟に新しい城を建てようと思っている……見つけうる限りもっとも美しい場所です
と書いている。



バルコニーからはホーエンシュヴァンガウ城が見える。
左がアルプゼー(ゼーは湖)、右がシュヴァンゼー。チロルアルプスが雪をいただいている。



アルプ湖チロルアルプス(タンハイム山塊)。
手前の緑なす山が、ドイツとオーストリアの国境だ。

シュヴァンはこの城の名にもとられているが、「白鳥」のこと。ルートヴィヒの頃は上記の湖にたくさん飛来したが、現在はほとんど見られないとのこと。

ガウは「巌」のこと。



城から見える村々。



「本当は撮っちゃいけないんだろうなぁ」シリーズ――厨房。
ぶる下がっているのはロウソク立て。






次の目的地へ急ぐため、幹事としては「車を停めて!写真を撮るから」とは言えなかった。バスの車窓から。


ルートヴィヒ II 世略年表 (現地日本語パンフをもとに補筆)
1806 フランス皇帝 ナポレオンにより、バイエルンが王国として承認される
1845.8.25 ルートヴィヒ、ミュンヘン・ニンフェンブルク宮殿で誕生
1864.3.10 バイエルン王マクシミリアン II 世崩御につき、18歳なかばで即位。第 4 代国王となる
1864.5.4 ワーグナーとミュンヘンで会う
1865.12.10 ワーグナー追放
1866.5.10 プロイセンの対オーストリア戦略にオーストリア側に伍し、動員令に署名
1866.8.22 プロイセンと講和条約を締結(プロイセンに対し多額の賠償を支払うことになった。)
 これ以降も諸国間の政治的緊張はつづく
1867.1.22 いとこのゾフィーと婚約
1867.10.10 ゾフィーとの婚約を解消
 ルートヴィヒの唯一の理解者シシィ(ゾフィーの姉)もさすがに激怒
1868 5.13 シュヴァンガウのポラット渓谷河畔の古い街の復興事業を発表
 春ノイシュヴァンシュタイン城起工
 9. 5 定礎
1870 ホーエンローエ首相、議会により解任
ルートヴィヒの執政にとって有能で重要な人物を失う)
 時期不明だがこの年落馬。運動機能障害の発端となる
1870.7.15 普仏戦争
1870.7.16 プロイセンとの協定により対仏動員令に、ルートヴィヒはラテン語で「Bis dat qui cito dat……〈早く与えるものは二度与える〉」と口にし、渋々署名
(この頃民衆の支持は高く、政治的判断も状況を考えれば最善を尽くしていたと見られている)
1870.9.30 リンダーホーフ城の最初の計画が完成する
1870.11.30 ライバルのプロイセン王に「皇帝書簡」を送り、ドイツ皇帝の冠を呈上する羽目に陥る
(この見返りとして城の建設資金をせしめる)
1871.1.18 はれてプロイセン老王ウィルヘルム I 世がドイツ皇帝を宣言する
1871.5.10 弟オットーの錯乱がひどく医師の監視下におかれる
1871.8.31 ブライ内閣辞任
 この頃より議会勢力が伸長し政治が破綻し始める(バイエルン国内の貴族階級の凋落)
 同じ頃、ローマ法王の「法王不可謬権問題」がバイエルンに飛び火し、抗プロイセン構想にも利用されたが、ルートヴィヒに影響を与え神聖王権の妄想にとりつかれた
1873 ルートヴィヒ、キームゼーのヘレン島を取得
1874夏 普仏戦争の賠償についてフランスに行く
1874 帰国後すぐに、トリアノン宮殿を模したリンダーホーフ城を着工(1878完成)
1878.5.21 ヴェルサイユ宮殿を模して、ヘレンキームゼー城の建築を着工
1886.6初 総理大臣ルッツを首とし王に追放されたホルシュタイン伯爵を加えた政府委員会が組織される
 ルートヴィヒを禁治産者に指定する
1886.6.8 グッデン博士を主席とする医師団が、不治精神病と鑑定する
1886.6.9 叔父のルイトポルト太子が摂政となる
1886.6.10 政府委員会がクーデターを実行に移し、王を収監するため派遣委員団がノイシュヴァンシュタイン城へ行く。しかしクーデターは失敗し委員団メンバーは拘束される
 ルートヴィヒはバイエルン国民に声明を出すが、直ちに押収され発表されず
 ルートヴィヒは抵抗をやめてしまう
 事態の収拾をアドヴァイスしたビスマルクは「この決定(ミュンヘンに行き議会に出席し、国民に姿を見せること)に踏み切らなかった王は……みずから自分の運命に屈したのだ」と評した
1886.6.12 政府委員会はルートヴィヒを拘束し、ノイシュヴァンシュタイン城からベルク城へ移送する
1886.6.13 ルートヴィヒとグッデン博士が、シュタルンベルク湖で謎の変死体になって発見される
 シシィはこの時シュタルンベルク湖畔にいた
1886.6.19 葬送。遺体をミュンヘン聖ミヒャエル教会ヴィッテルスバッハ家墓所に埋葬、心蔵をアルトエッティング「慈悲礼拝堂」に納める
夢のあとに ルートヴィヒの崩御後、城の建造は中止
 「王の館」といわれる居住と接客に必要な5階からなる宮殿部分の建造のみで幕を閉じた。(内装まで完成しているのは 4 階のみ) 東に聳えるはずの 90m におよぶ天守閣部分や西側に張り出すはずのテラスには手をつけられていない。
(但しまったく中止になったのではなく、城の建造を打ち切り使用できるように一部手直し、崩御後完成させた部屋もある。その後に築城を終了させた)
 ここに居住したのは彼の死に至るまでの2年間で、トータル172日だという。
  

  
どうでもデータ 常勤 30 人。王滞在時その倍
 全長 130 m 建物敷地面積2557 ㎡ 同容積 67179 立方m 本館 56.94 m 主塔高さ 79.16 m 四角塔 48.22 m
 材質:(赤)煉瓦と石灰岩と砂岩
門と建物は煉瓦。建物の白い部分は煉瓦の上からシュヴァンガウやフュッセン、アルターシュリフェンなどシュヴァンゼー近くの石切場で採れる石灰岩で化粧張りをしたもの。結構軟らかい岩である。(貼りかえ工事を行っているときに一部頂戴した) 黄色の砂岩はバイロイト産。
どうでもデータ 2 乾電池を使用したベルを備え、従者をどこからでも呼び寄せた。
 料理は三階下の厨房から昇降機を使用し食堂に運ばれる。
 暖炉の熱は壁の裏を通り肉と鳥を焼く回転機のタービンを回した。その途中壁際に収納されている食器を温め、温かい皿で料理が提供された。厨房横のボイラーは温水給湯を実現し、余熱は各部屋に配分され温風暖房(真冬は補助暖房の役割)となっていた。
 ルートヴィヒの崩御後まもない 1886.8.1 に一般に公開された
その他の
事業
 学校・ギムナジウム(高等中学校)と大学の拡張。ミュンヘン造形美術大学設立。ミュンヘン工科大学設立。工芸美術に対する「ヴィッテルスバッハ基金」の設置。「赤十字」をバイエルンへ導入


孤高の彼と終生理解し合えたのは、ヴィッテルスバッハ家出身でオーストリア皇后になったエリーザベト(エリザベト Elisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach 。フランツ・ヨーゼフ1世皇帝の奥様。愛称:シシィ Sissi, Sissy, Sisi )だけだったという。互いを「鳩」と「鷹」と呼び合ったという。

アポリネールはこの人を「月王」と呼んだ。

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