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J.S.Bach : 『ヨハネ受難曲』 BWV 245 を探して


バッハ:ヨハネ受難曲バッハ:ヨハネ受難曲
(1991/10/25)
カール・リヒター(指揮) テッパー(ヘルタ) リアー(イブリン) ミュンヘン・バッハ管弦楽団・合唱団

仁屋番頭のレファレンス。
でも今回はピリオド演奏の話。
この録音については永遠の未評価としておきたいのです。


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J.S.バッハの受難曲は『故人略伝』によれば合計で 5 曲が作曲されたといわれ、そのうち 2 曲、『マタイ受難曲』『ヨハネ受難曲』のみが現存している。

失われた曲のうち『マルコ受難曲』 BWV 247 は哀悼カンタータ 『侯妃よ、さらに一条の光を』 BWV 198 と「ミサ曲 ト短調」 BWV 235 の合糅パロディであることが分かっているので、そう思ってこれら 2 曲を聴くと、「マルコ受難曲」のおおよそが……なんてことはなく、これはこれでとてつもなく完成度の高い美しい名曲で、痺れてしまう。

「ヨハネ受難曲」は、一昔前は人類の文化遺産ともいうべき名曲「マタイ受難曲」の陰に、一歩遠慮がちに取り沙汰されるのが普通だった。一方で熱烈なファンが多かったのも事実で、かくいう仁屋番頭も、冒頭合唱を「合唱曲はかくあるべし。これがクラシック」だ、なんて偉そうにいってたりした時分もあった。

それでも
なんでマタイがあるのにヨハネを持ち出すの? マタイのほうが名作、というのは世の評価で立証されているじゃない
な~んていわれると、合理的説明もできず、だまるしかなかった。

近年はバッハ自身が 4 度にわたって改訂していたことも広く知られるようになった。
その理由の 1 つとして、歌詞の中に妥当ではない部分があったらしく、市議会による圧力があったようだ。「さんざん演奏してきたのに何を今更……」といいながら、バッハはこのときは演奏中止。その後になお手を加え続け、晩年になり上演し、生前中の演奏回数は 4 回に上る。
このことからもこの曲はバッハが手塩にかけており、いかに魅力的であるか……と語ることができる。

演奏はもちろん、カール・リヒター指揮、ミュンヘンバッハ管弦楽団 / ミュンヘンバッハ合唱団のものが歴史的名盤であり、仁屋番頭にとってのかけがえのない盤。

バイエルン州のドイツ人たちにいうと、田舎の人たちは「馬鹿野郎!ここはワーグナーの本拠地だ」と一蹴される。これをミュンヘンでいうと、「ここはリヒターの本拠地だ」と歓迎される。この雲泥の差は何? という感じ。

さて、いくら名演とはいえさすがにピリオド演奏全盛の時代、いささか古びてきた。それと、それはさておいて、新しいものも聞きたいのである。


ヘレヴェッヘ指揮:コレギウム・ヴォカーレ
Philippe Herreweghe : Collegium Vocale Gent



バッハ:ヨハネ受難曲バッハ:ヨハネ受難曲
(2002/03/27)
ヘレヴェッヘ(フィリップ)コレギウム・ヴォカーレ

★★★★★

顔ともいうべき冒頭合唱部が別のコラールになって聴けないものの、演奏は素晴らしい。旧録音の再発売を望んでいたが、現在この再録音も入手しにくくなっているようだ。新録音が……なんてことは今更ないだろうな。

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フィリップ・ヘレヴェッヘが、マタイの 2 度目の録音にのぞんだとき、初録は、残響音が長い教会でそれ用に録音したが、経験を積み重ねていくうち、プロテスタント音楽の空間がもっと乾いた響きで演奏されるべきことが分かって再録した、と明らかにしている。この再録の演奏は素晴らしいものだった。

そこでヨハネも、ヘレヴェッヘに期待した。



私がこの手のものに手を伸ばすようになった時はすでに再録音をした後で、ヘレヴェッヘは第 2 稿を採用していた。

第 2 稿は冒頭合唱部が、「マタイ受難曲」第 1 部の最終合唱にも転用されたコラールと差し替えになっている稿である。

演奏は、さすが合唱にかけては定評あるヘレヴェッヘ、純正律に準じたハーモニーは麗しく申し分がない。しかしながらいかんせん”音楽の中の音楽”=冒頭合唱部がないのはアンコのない鯛焼きのようなもので、番頭的には満足できない。(正確には差し替えられた合唱部は存在する)

そもそも序曲的な性格を持つこの合唱部は、声楽主体で進んでいく大曲だけに、それを支える器楽が全面的に活躍していて、全曲のイメージを伝えるのに重要な役割を果たしているのだ。

一時「緊急入荷で旧録を入荷した」というのを、店頭で見かけた時があったが、その時はどのような事態が起こっているかよく分からないので見送った。欲しいと思った時にはすでに手に入らない……世の常である。

といっても演奏には非の打ち所がないので満点にしておく。


鈴木雅明 指揮:バッハ・コレギウム・ジャパン


J・S・バッハ:ヨハネ受難曲 (2CD)J・S・バッハ:ヨハネ受難曲 (2CD)
(1999/03/05)
鈴木雅明(指揮)バッハ・コレギウム・ジャパン、

★★★☆☆

よく頑張ったと思うが、それだけ。
星 3 つ半にしたいが、下のフェルトホーフェン版と同ポイントでは納得いかないから、半分減らした。


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そこでネットで評価の高かった鈴木雅明氏 指揮 BCJ 版。

こちらは第 4 稿を使用し(総譜に第 4 稿を合糅しているという人もいる、ゆっくり聴いている暇がないのでこの点については保留)、レーベルも BIS で音が申し分ないというふれこみ。

ところがいわゆる " アラスカの森林と南極の氷河 " ほどではないが音が遠く、分解能も低い。

演奏は優等生がそつなくまとめた試験答案のようで、どこをとってもそれぞれ模範解答らしいものが並べられるが、でも音楽的求心力がないというのか、物足りない。ときにソリストの歌が弱い。

「日本人としては」の冠飾がどこまでもつきまとう、日本人演奏家を応援したい人向け。


フェルトホーフェン指揮 オランダ・バッハ協会
Jos van Veldhoven : The Netherlands Bach Society



Bach: St. John Passion, BWV 245 [Hybrid SACD]Bach: St. John Passion, BWV 245 [Hybrid SACD]
(2005/03/08)
J. Veldhoven(con.)
Stan(S) Türk, MacLeod, Ramselarr(B)



素晴らしい演奏です。ただ気づいてしまいました。それは……

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そんなこんなをしていると、あるとき NHK でルネサンス期のポリフォニーの聖歌か、典礼用のミサ曲でも聞いているかのような斬新のアプローチの「ヨハネ受難曲」が流れてくる。フェルトホーフェン指揮 オランダ・バッハ協会のものである

♣私たちを支配される方よ~♣ 支配されたくないな……(-_-;)。曲は好きだが、こういう部分はご免である。音が割れていて、このメンバーの演奏の良さが伝えられていない感じだけど貴重な動画、利用させていただきます。

ピリオド演奏もここまできたか……というような見たことも聴いたこともない「音のアラベスク」を目のたりにする演奏である。

バッハ時代の奏法と響き……現在の名だたる古楽の巨匠の、そんな謳い文句はこれっぽちも信じていないが、この演奏にはかの時代はこうだったのかもしれないという響きと調べを感じ取る。

冒頭合唱の最初 " Herr " の三唱――それぞれに表情がつけられデクレッシェンドで歌い継ぎ、二唱目がメゾフォルテ気味に短く、三唱目はピアノでテヌート気味に唱われ、続く " unser " も音程を異にするパートが目立つせいか、いささか異なる楽譜を使用しているような錯覚を覚え、これだけでも度肝を抜かれてしまう。(録音と放映時の歌唱法は異なる)

「ヨハネ受難曲」第 1 稿を使用し、(といっても 1 稿がどのようなものだったかは類推の域を出ていない。パート譜のみが残されており、冒頭合唱にフラウト・トラヴェルソが使われていなかったらしい。この録音では、オルガンで参加のデュルクセンの意見により曲全体にまでそれを敷衍している) 声楽各パート 2 人、オーケストラ・パート 1 人、”リフキンの仮説”(合唱部が4人のソリストによって唱われるという説。これは本来、ロ短調ミサ曲に対してのものだった)に近い形体を採用している。ただこの録音の構成は、やはりデュルクセンがリピエーノ(補強要員)用の写譜の存在を指摘し、ソリストの他に合唱部用のリピエーノを追加したのだそうだ。

今の人たちはバッハ演奏のこうした少人数化――リフキン説は極端なものとして例外として――ピリオド演奏の独自性と考えるようだが、実際はリヒターがいち早く採用していた。もちろん今の比ではないせよ、それまでの大人数編成のロマンティックなマエストロたちの演奏に対して、当時としてはスリム化した編成でのぞみ、このことによりオーケストラ・合唱が指揮者と緊密な関係におかれ、オーケストラが「意志的に動く」と語っていた。バッハ演奏の様態を予見していたと言いえることである。

現在のピリオド演奏が、それとは比すべきではない少い編成で行われていることは、もちろん一線を画さねばならない。
そしてもっとも極端な意見の延長上線にあるこの演奏では、合唱部も器楽部も繊細な音の、もしくは言葉の絡み合いで表現され、有機的な音の結節点に本来かくあったであろう「ヨハネ受難曲」が、あらわに形作られる。またソリッドともいうべきむき出しの声のによる表現は、指揮者の意志さえもとおりこし、作曲者の意図をダイレクトに伝えるかのような迫力に満ちている。

舞台上の配置も独特。ティオルボ(テオルボ)なんて楽器は私が昔バロックを聞いていた頃にはなかった楽器だなぁ~と、時代の進展にしばしば思いは別の方角に行く。

この楽器がイエスのパートの通奏低音でオルガンとともに用いられ、エヴァンゲリストの時のそれがチェロ + チェンバロと使い分けられ、通奏低音の黄金関係が成立し、それぞれの役が明瞭になるという。録音を聞くと、やや納得してしまう。フェルトホーフェンもローレンス・ドレフュースによるこの説によったそうだが、通奏低音楽器を重複させて用いる補強説には反対意見もある。(例えば小林義武氏

テレビの放映ではテノールのアンドルー・トータスなる兄ちゃん(おっちゃんか?)が一人調子っぱずれで口角泡を飛ばしながらやや暴走気味、まわりの楽器演奏者たちもそれがおかしいのか、みな笑いながら演奏していた。

録音の方では、チャールズ・ダニエルズなる人物に変わっており、またこれだけの名人芸を全曲中維持するのは難しいのか、時おり声楽部がやや不安定になる。

この CD は現在 SACD 版となっており、「それ専用の機器でないと再生できません」の様なことが発売元によって記載されていて、仁屋番頭はそんな新しい機器も持ち合わせていないので、指を加えてみているだけだったが、フェルトホーフェンの録音が SACD 化される過程において、表示を SACD としたものは共通してハイブリッド仕様になっているとの噂を聞き、購入してみたら見事に再生できた。

そんな訳で難はあるものの、これは座右においてしかるべき演奏! と思ってしばらく飽きもせずに聞きつづけていた。
ところが気がついてしまった、ドイツ語の発音がおかしいことに。歌手陣はドイツ語圏の人間が多いのにどこ訛りなのか、これは気になる。残念ながら大幅減点の対象である。

結局、ピリオド奏法の演奏でまだ決定的な録音に出会っていない。
「ヨハネ」の新しいレファレンスを探して、荒野の収集の旅は今日も続く。


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