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赤い城 : Schloss Heidelberg

ハイデルベルク城はプファルツ選帝候の城だった
ここには西欧で一番古い大学:ハイデルベルク大学があり、ルターが信仰告白をした地でもあり、ゲーテも 8 度この地を訪れ、こよなく愛したとされる。

城門塔とループレヒト館


図書館棟と王の広間あたり

information
modelCanon EOS 5D Mark II
LenseEF24-105mm f/4L IS USM
SoftwareDPP 3.6


第二次世界大戦で連合軍は、ベルリンやナチス党の党本部があったニュルンベルクの街といわず大都市の多くを爆撃し、戦争を終焉させた。

戦後処理に、米軍や連合国は、高位の司令所を、主だった都市に陣営できない状態であり、そこで選ばれたのが、ここハイデルベルクである。都市では数少ない戦禍を免れた場所だったこともあるが、ドイツ人の理性を象徴する場所だったからともいわれる。



エリーザベト門

シュトュックガルテン(砲庭)の入り口に建てられるバロック様式の門。

伝説に過ぎないが、フリードリヒ 5 世の妻、イギリス王女エリザベス・ステュアートは、シュトュックガルテンの散歩を毎日楽しんでいたので、彼女の19歳の誕生日に、フリードリヒはたった一晩でこの門を建ててプレゼントにすることにした。昨日までなかった門が突如現れて、いつものように散歩に出た彼女を驚かせた、といわれている。

左手にはゲーテ記念碑がある
『西東詩集』の「イチョウの葉」がうたわれたところ(だそうだ。よく見ていない。見とくんだった……後悔)

シュトュックガルテン(砲庭:過去記事から)


ディッカー塔

ルートヴィヒ 5 世がつくった防衛施設の 1 つだそうだ。

ハイデルベルクは、カール 2 世に世継ぎがなく1685年に没すると、外戚だったフランス・ルイ 14 世が継承権を主張して侵略の憂き目にあった。(プファルツ継承戦争)

新選帝候のフィリップ・ヴィルヘルムはフランス軍の攻撃に、1688 年 10 月、城と街を放棄した。

フランス軍は完全に街を占拠する。

しかしルイ 14 世の野望に脅威を感じた列国(プファルツ、神聖ローマ皇帝レオポルト1世、バイエルン、ブランデンブルク、スペイン、スウェーデン、ネーデルラント)は 1686 年に対仏同盟を結んでおり(アウクスブルク同盟/アウグスブルク同盟戦争)、対するフランス軍は、ハイデルベルクから反撃の機会を奪うことを宣言し、この地の防衛施設の破壊と荒廃を進め、1689 年に退却する。

すでにフィリップは戦時中に卒し、次代のヨハン・ヴィルヘルムが城と街の修復をすすめる。

そして この間もフランスの侵攻はやまず、1693 年に三たび進軍し占領、それまでにハイデルベルク城の防衛施設が機能し障害になっていたことから、城を支える経済圏・後背地そのものを殲滅する戦略をたて侵攻しており、街に破壊の限りを尽くしたそうだ。

1697年、レイスウェイク条約が結ばれ、フランスはヨハン・ヴィルヘルムの選帝候継承を承認、この惨事が終焉する。

ヨハンは 1716 年に逝去する。街はともかく城の再建は難事業で、そもそも前々時代的な遺構だった城は、すでに当時の諸機能を果たせないでいため、再建はあきらめられた。

1720年、選帝候カール 3 世=フィリップは、民衆と宗教上の理由で対立し、ライン川畔に位置し交通にも至便なマンハイムに都を移してしまう。この時点で、ハイデルベルクの政治上の役割が終わりを告げる。

ちなみに運転しているときに、このマンハイムの標識に随分悩まされた。
遠方からハイデルベルクを目指すときは、マンハイム方面が目印。ハイデルベルクへの分岐点まできてもマンハイムの標識があるだけで、ウッカリすると通り過ぎてしまう。逆にハイデルベルクから出発するときは、アウトバーンを北へ行くフランクフルト方面と南に行くシュトゥットガルト方面と、どちらも街の西に西向きに並んで乗り口があり、「マンハイム方面」とあるだけで間違えてしまった。もう見たくない地名である

1764 年、カール=テオドール候がハイデルベルク復興に着手。
しかし城が落雷、炎上したことを機に、城の復興は以後完全に放棄されることになった。

アルタンに出るところ

北側にはアルタンという名前のテラスが広がる。
「アル」がアラビア語で「赤」の意味。

アルタンからカールス砦、武器庫の方角をながめる


左からフリードリヒ館、ガラスの広間棟、オットハインリヒ館


世界一大きなワイン樽(大樽棟 Fassbau)

大樽の栓は、「王の広間」と隣接する上の階に直結し、「王の広間」にすぐに供給された。
樽のマークはカール=テオドールのイニシャル「C」と「T」である。

左に見える青い服の像は、ペルケオ。

樽の向かい側の壁 : ペルケオはワイン樽の監視人でもある

神聖ローマ帝国皇帝のチロル代官としてインスブルックに赴任していたが、宮廷道化師としてハイデルベルクに連れてこられた。1 日に 15 本のワインを平らげたという。

彼の左側にペルケオがいたずら好きだったことにちなんで、ビックリ箱が設置されている。(写真では仕掛けがフタに引っかかり、タネが見えている)
上にある大きなコンパスと分度器は、このワイン樽を作るときに用いられた工具だそうだ。

観光客はワイン樽右手より階段を上り、ワイン樽の上を1周し、上の写真のように降りてきてワイン樽の正面に戻れる。

ハイデルベルクのお城の中に
小人のペルケーオが住んでいた
ちびはちびでものどのかわきは
ひと一倍 阿呆阿呆と叱られて
とくと考えた みなさんだって
お酒飲むからにゃ楽しくなって
もっとおつむをよくしたかろう
マイヤー=フェルスター『アルト=ハイデルベルク』
丸山匠さん訳 岩波文庫 赤 427-1

彼が小人だったのかどうかは知らないが、カール・フィリップ選帝候が彼に大樽のワインを飲み干すことができるかを尋ねたときに「Perché no?」(イタリア語で「なぜ、できないの?」)と答えたため、ペルケオと呼ばれるようになったそうだ。

旧市街にすぐに降りられる回廊



この出入り口は勾配が急で徒歩で歩かなければならないが、旧市街と直結している。
ブルクヴェーク Burgweg という本来の城の登城道だ。

通常ロープウエイで登るケーニヒスシュトゥール山の側からはいることになっているが、こちらからも入場は可能である。(徒歩)


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  1. 2010/01/12(火) 21:20:43|
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